回文コラム

回文にまつわるコラムを掲載していきます。


第9回:理系は回文がお好き?(2) (2008/6/13)

 文章の意味はおかまいなしに文字の配列を逆さにするだけであるから、数字を扱っているのと変わらず、数学的才能が発揮されるのは分かる気もする。回文を作ることについて言えば、文章を逆さにするだけではだめで、そこに意味をもたせなくてはいけない(これが難しいのである)。博士がルートの宿題を手伝って作った回文は「冷凍トイレ」だけであったというから、回文作りについては常人レベルなのかもしれない。それでも、博士のように長い文を瞬時に逆さにできれば、回文作りもさぞかし楽だろうと思う。
 博士は回文作りが趣味だったわけではではないが、ここで、回文作りと理系の関係について考えてみよう。私は理系である。自分では、限りなく文系に近い理系と思っているが。投稿作品でおなじみのゴジラ君も理系。リンクを貼らせていただいている「まるちゃんのホームページ」のまるちゃんさんも理系。他に知っている回文作者が多くないので、何とも言えないが、回文好きには理系率が高いというのはあるかもしれない。
 仕事でも勉強でも、文系だから、理系だからと線引きができる時代ではないので、一概には言えないが、仕事で日頃から文字を扱っているような人には、回文は趣味になりづらく、本業と回文との関係が薄い理系だからこそ、趣味で回文を作るのかもしれない。
 皆さんの周りの人はどうだろうか?(「回文作ってる人なんかいないよ」という声が聞こえて来そうだが…)
 最後に、誤解のないように言っておくと、「理系の人が趣味で回文を作る」というのは普通の人の話であって、私の場合はプロフィールにあるように本業は回文研究家・技術研究者であるので、どちらも趣味にはあらず…である。
(このシリーズ完結)

第9回:理系は回文がお好き?(1) (2008/6/1)

 最近、「博士の愛した数式」を読んだ。何年か前のベストセラーで、いまさらという感じだが、映画の方を先に見てしまったので、これまで小説を読もうという気があまり起こらなかったのである。数学者の「博士」、家政婦の「私」、その息子「ルート」の過ごした生活の中に、数学(または数)にまつわる話がちりばめられている。3人の心の触れ合いに、数学のエピソードを巧みに絡めた心温まる物語で、改めて映画は小説の世界観を忠実に再現していると感じた。小説は、また映画とは違う味わいがあるので、映画を見た方にもぜひ一読をお勧めしたい。
 ここで注目したいのは、博士には、言葉を瞬時に逆さまに言い換えることができる特技があるというエピソードである。ルートが回文を作るという学校の宿題に取り組んでいた時の話だ。
  ルート「今日の給食はチキンカツ」
  博士「つかんきちはくよしうゆきのうよき」
 という具合である。
 このエピソード自体は話の本筋には何の影響も与えず、それ以外の箇所が数学に関することで埋まっているのに比べ、異質な感じがする。映画では出て来ない話である。なぜ博士にそんな特技があるのかという理由については、何の説明もないため、数学者というものはそういうものかと思わせてしまうところがある。
(次回につづく)

第8回:回文的麻雀(3) (2007/11/16)

 しかしながら、頑張ってこれらの回文(回牌)を目指しても、場が流れなくては役が成立しないというのは、あまりにも寂しい。それならば、発想を逆転させて、場は必ず流れることとして(誰かがアガるということはない)、捨牌で勝負するというゲームにしてしまってはどうだろうか。つまり、捨牌こそが大事な牌で、手牌は不要な牌になるわけである。これならばプレーヤーは回文(回牌)を作ることに専念できるので、ゲームとして成立するだろう。一度、麻雀好きか回文好きを集めてやってみようかと思う。
 ただし、残念ながら、これでも麻雀の面白さにははるかに及ばない。なぜなら、牌を作る過程で他のプレーヤーとの相互作用が全くないからだ。麻雀というより、4人が1人ずつポーカーをやっている感じに近いのではないか。麻雀のポンやチーのように、プレーヤー間で牌が行ったり来たりして回文(回牌)を作る形にすれば、もっと面白くなるだろう。この点について、もう少し具体的に思考を進めていきたいところではあるが、この回文的ゲームが将来麻雀とは全く違う面白いゲームとして大ヒットするかもしれないので、公開するのはこの辺までにしておこう。商品化の相談は別途メールでお願いしたい。
(このシリーズ完結)

第7回:回文的麻雀(2) (2007/10/28)

 捨牌は、通常、麻雀の勝ち負けを左右しない。だが唯一の例外として「流し満貫」という役がある。これは捨牌が一九牌か字牌だけで、場が流れた時にだけ成立する特別な役である。(ここで、麻雀の用語を逐一解説していると大変なことになってしまうので、一部省略させていただくが、お許しいただきたい。)
 「流し満貫」から類推すると「流し回文」または「流し回牌」というのはどうだろう、ということが考えられる(正確には「流し回文(牌)満貫」とか「流し回文(牌)役満」になるかもしれない)。場が流れた時に捨牌が回文の形をなしていれば役が成立というわけだ。場が流れるまでの捨牌は18枚になるため、先の例にならって記号で書くと「ABCDEFGHIIHGFEDCBA」となる。もっとも牌は4枚ずつあるので重複も許容され、例えば「AABCBDEFDDFEDBCBAA」のような場合もある。だがいずれにせよ、こんなことは、ねらってやっても相当困難であろうし、そもそも自分の手牌についてはほとんどあきらめないといけないという、本末転倒も甚だしい事態になる。
 18枚の回文(回牌)は難しいなら、場が流れた時の捨牌に「ABA」や「ABCBA」や「ABCDBCA」という短い回文(回牌)がいくつ含まれるかで優劣を決めるというのはどうだろうか?これならば実現できそうである。さらに、プラスアルファ的な上位の役も考えられる。「緑一色」(リューイーソー:役の名前)を作る緑の牌(「發」とソウズの2・3・4・6・8)だけを使って3つできれば「緑トマト」。「紅一色」(ローカルルールではこういう役もあるらしい)を作る赤い牌(「中」やピンズの5など)だけを使って3つできれば「赤トマト」。5つなら「緑新聞紙」と「赤新聞紙」、7つなら「緑竹やぶ焼けた」と「赤竹やぶ焼けた」である。
 それぞれの役の高低は、3つは「赤トマト」(熟してる)>「緑トマト」(熟してない)、5つは「赤新聞紙」(赤い新聞…)>「緑新聞紙」(意味不明)、7つは「赤竹やぶ焼けた」(かなり燃えてるので赤い)>「緑竹やぶ焼けた」(まだあまり燃えてないので緑)という具合になるだろうか。大分、詳細まで決まってきた。
(次回につづく)

第6回:回文的麻雀(1) (2007/10/20)

 麻雀(マージャン)とは、4人のプレーヤーが13枚の牌を自分の手牌として、中央の山から順に牌を1枚ずつ取り、不要な牌を1枚ずつ自分の前に(相手に見えるようにして)捨てる、という具合に進行するゲームである。麻雀と回文に何の関係があるのかと思われるだろうが、麻雀をやる人なら誰しも一度は回文とのつながりを意識したことがあるのではないか。
 自分が牌「A」を捨てるとする。その結果、目の前に置かれた捨牌(捨てた牌)が「ABA」の形に並んだ。そんな時、思わず「あ、トマト。」と言ってしまうか、口にしないまでも思ってしまうという人は、回文好きでなくても、きっと多いはずだ。(私は必ず「トマト!」と宣言するが…)
 当然、「ABCBA」の形も出てくるので、私は喜んで「しんぶんし!」と宣言する。だが残念ながらその機会はあまり多くない。さらに、「ABCDCBA」の形にして「たけやぶやけた!」と言うこともできるが、ここまで来ると対子(トイツ:「AA」など同じ牌が2枚の組み合わせ)を3つも捨ててしまっており、肝心の手牌のほうは悲惨なことになっているので、もはや喜んでいる場合ではない。
(次回につづく)

第5回:回文になっている名前 (2007/7/7)

 名前が回文になっている人というのはいるだろうか?実は名字が回文というのは珍しくない。石井さん、今井さん、真島さん…などなど。ごく一般的な名字であるため、ご本人はともかく、周囲の人は回文であることに気づいていないのではないか。
 それでは、フルネームが回文の人というのはどうだろう?フルネームとなると、途端に希少な存在になる。皆さんは、自分の子供に名前をつけるとして、そのフルネームが回文にできるかどうか考えてみたことがあるだろうか?おそらく、ほとんどの人が「どうやっても無理」と答えるのではないか。下の名前は、名字を逆さ読みしたものでなくてはならないため、名字によっては、まともな名前にすることができない。というよりも、むしろ一部の限られた名字でしか回文のフルネームは実現しないと言えるだろう。「回文にできそう」という恵まれた名字の方は、回文フルネームも子供の名前候補として検討してみてはいかがだろうか。(あなたが未婚の場合、名字が変わる可能性はあるわけだが…)
 学生時代、友人に聞いた話では、当時、同級生に「みなみ なみ」さんという人がいたそうだ。名づけたご両親、センスありますねー。それ以外では、残念なことに身近で回文フルネームの人の話を聞いたことはないし、ましてや知り合いにそういう人はいない。
 芸能人ではどうだろう。たくさんいるだろうと思って考えてみると、意外にいないものだ。「だんだ だん」(段田男)はちょっと違うしなあ…。Wikipediaを見てみると、「このは のこ」(木ノ葉のこ)という女優さんがいるらしい。それと、芸能人ではないが、元衆議院議員の「おち みちお」(越智通雄)さん。覚えやすいので、政治家としては好都合ではないか。でも、越智通雄さんの息子さんは衆議院議員の「おち たかお」(越智隆雄)さん。普通ですね。回文の名前にはもう懲りたんでしょうか?お父さん…。

第4回:回文研究家への道(3) (2007/6/29)

 部誌の雰囲気が改善されて、喜んでいられたのもつかの間。回文のレベルが向上して長文化したことで、今や部誌の中で回文の占める割合は非常に大きくなっていた。すると、「楽器の演奏はするが回文には興味がない」という珍しい人もたまにはいるもので、その方面から「もう、回文マジでやめて〜」と言われるようになってしまった。たしかに、部の費用で購入した部誌を、一部の人間が尋常でない速さで消費するというのは、皆の理解が必ずしも得られるものではない。そんなら…と思った私は、独立することを決めた。独立といっても、新たに「回文部」を作ったとかいうことではなく、新たに自腹で用意した「回文ノート」を部誌とは別に置くこととし、皆の作品発表の場をそちらに移すことにした。こうして、私が現役の間は、誰からの圧力も受けることなく順調に作品は増え続けた。そして、卒業後も…後輩たちが、綿々と…続けるわけもなく、今となっては部誌も回文ノートもどこに行ったか分からなくなってしまった。
 当サイトに載せている回文には、当時作られたものがいくつか含まれている。だがそれは、たまたま私の記憶に残っていた、ごくごく一部の作品にすぎない。珠玉の作品の数々が失われたという事実は、当サイト、ひいては回文界全体にとっての大いなる損失であることは疑いがない。しかし現状を悲観してばかりいても前には進めない。現在に生きる私達に残された道は、この痛みをばねにして、精一杯、新作を世に送り出し続けることしかない。(このシリーズ完結)

第3回:回文研究家への道(2) (2007/6/24)

 これまでの暗い部誌の雰囲気を変えようと決意した私は、斬新なコンテンツを誌上で展開しようとあれこれ試みた。初めはダジャレを書いたりもした。でもダジャレは従来の雰囲気とのギャップがあまりにも大きいためか、受けはイマイチだった。そこで…選ばれた新たなコンテンツが「回文」であった。なぜ回文だったのか、今となってははっきり覚えていない。おそらく回文は基本的には笑いのカテゴリーに入るが、それでいて文学的・芸術的・数学的(?)要素を含むため、比較的受け入れられやすいと考えたのであろう。
 私が回文作品を発表するとすぐに、楽器の演奏だけでなく回文作りに秀でた同志たちが次々と秀作を発表するようになった。こうした動きに呼応して、当時のTV番組ではやっていた「あるなしクイズ(Wikipedia)」とか、「激辛カレー制覇の記録」とかいう秀逸なコンテンツも誌面をにぎわすようになった。かくして、私の「部誌お笑い化計画」はここに日の目を見るようになった。(あと1回だけつづく)

第2回:回文研究家への道(1) (2007/6/15)

 高校生の私は音楽系の部活に所属し、高校生活の大半を部活に費やしていた。その部活というのは、いちおう、ではなくて、ちゃんと、楽器を演奏することが目的の集団なのだが、なぜか一時期、部員達の間で回文がはやっていた。私が「はやらせた」と言ったほうが正しいだろうか…。
 部には専用の部室があり、楽器を置いたり、練習したり、CDを聴いたり、さらに、昼飯を食べたり、語ったり、運動したり、寝たり、授業をサボったり…と、どこの学校でもそうであるように、様々な用途に活用されていた。部室の机の上には部員相互の連絡や交流のための「部誌」と呼ばれるノートが備えてあった。ある時、私が1年生の頃だっただろうか、何気なく部誌を手に取り開いてみると、そこには「死にたい…」の文字が。どうやら筆者であるところの部員はお勉強か、部活か、もしくはその両方かで思い悩んでおり、今の苦しい思いを書き連ねた挙句に、そのような心の叫びに至ったようだ。他にも書き込まれているのは「死にたい」ほどではないにせよ、ウンザリでゲッソリするような内容で、そういう態度でなくては部誌を書く資格がないと言われているようだった。
 実際、それからしばらくは部誌を書く勇気がなかった私だったが、やがて2年生になり部室に滞在する時間が長くなると、自然と部誌に手が伸びてしまう…。とうとうある時、「えーこんにちは。こんな私でも部誌書いてもいいでしょうか…場違いですみません」というようなことを書いてみた。「ようこそ!」と歓迎されることはなかったものの、「場違いだ、このヤロー!」と拒否されることもなかったので、これで部誌を書く資格が得られたと思った私は、それまでのウンザリな部誌の雰囲気を変えていこうと決意したのであった。
(次回につづく)

第1回:回文との出会い

 「出会い」なんていう大げさなタイトルにしてしまったものの、初めて回文に出会った時のことをはっきり覚えているわけではない。おそらく、幼稚園の時にポンキッキかNHK教育のTV番組の中で、「上から読んでも下から読んでも、トマト♪」なんて歌われているのを見たのが初めてじゃないかと思う。
 もう少しまともな回文を見たのは、小学校低学年の頃。「ぴょこたん」という、帽子をかぶったウサギのような主人公が、言葉遊びで対決をしながら冒険をするといったような本(マンガかも?)を持っていた。ぴょこたんに負かされた敵キャラが「わたしまけましたわ…」と言っていたのを覚えている。ぴょこたん(主人公)の必殺回文(?)のほうは忘れてしまった。どんな本だったかネットで調べようとしたが、「ぴょこたんシリーズ」で何10冊も出ており、しかも1冊まるまる回文を題材にした本ではなかったようで、特定するには至らなかった。今も売られているのか分からないが、今度本屋か図書館で探してみるか…。

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